第9章:持してこれを盈たすは{身の引き時}
揣えてこれを鋭くするは、長く保つべからず。
金玉堂に満つるは、これを能く守る莫し。
富貴にして驕るは、自ら其の咎を遺す。
功遂げて身の退くは、天の道なり。
『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第9章
鍛えに鍛えてぎりぎりまで刃先を鋭くしたものは、そのままで長く保てるわけはない。
黄金や宝玉が家中いっぱいにあるというのは、とても守りきれるものではない。
財産と地位ができて頭が高くなると、自分で破滅をまねくことになる。
仕事をやり遂げたなら、さっさと身をひいて引退する、それが天の道(自然の在りかた)というものだ
潮時をみるという事か?
この章を読んで感じるのは、何事もほどほどに中庸を目指すというか、無理をするなというように言っているように感じる。
持してこれを盈たすは、其の已むるに如かず。
揣えてこれを鋭くするは、長く保つべからず。
これらは道理であり、大きくは栄枯盛衰ともいえるし、身近として完璧や潔癖が過ぎるといろいろ窮屈だということだろうか。
思えば日本のノルマ制度は、この点をしっかり考えないといけないのかもしれない。強いて言うならば、常に全力を求める様な無謀はするなということだろう。如何に限界を設定するか。欲とのつき合いを考えさせられる章である。
現代社会を如何に見るか。
人の限界はどう考えるべきか。土地のもつ生産性には限度があり、人を養える限界がある。
商業を発展させることで現代人は物質的な生産性に対して、虚構とはいいがたいがサービス業や金融業を発展させることで経済活動を拡大させてきた。
貿易などを通すことで、はじめは遠方の生産を利用する事で物質的な現物を確保して来たわけだが、現在はサービス業や金融業が発達することで信用という概念で経済を拡張し、信用や労働力などの現物ではないものに対しても価値を見い出すようになた。
すると初期の交易と異なり、現物の裏打ちが無いのに信用という虚像でもって補償する事になる。信用というものが悪いという意味でなく、今の社会の不思議さを問いたいと筆者は考える。
ここでいう信用とは不換紙幣としてのお金となる訳だが、兌換紙幣と不換紙幣という概念があるのをご存知だろうか。
兌換紙幣とは金や銀など、価値あるものと等価交換できる紙幣である。金や銀などの引換券ともいえる紙幣だ。
これに対して不換紙幣というものがある。これは金や銀とは交換できないが、発行元である機関の信用力でもって価値を保障している紙幣である。
信用というものはいろいろな面で大切なのではあるが、老子や他の偉人達が紀元前より戒めるのに人はいまだに信用を裏切ることをしてしまう。
すると信用の価値が揺らぐこともあるわけだが、そんな時には不換紙幣は兌換紙幣と異なり価値が増減してしまう。
そんな信用のバランスを利用して金融業は為替なんかも商売にしてしまうあたり、商魂たくましい。しかしそれが過ぎると、現物の実体経済と貨幣中心の信用経済との開きが顕著になってしまう。そうした開きが、新たな心配の種になってしまっているのが現代社会ではないだろうか。
老子は、
金玉堂に満つるは、これを能く守る莫し。
富貴にして驕るは、自ら其の咎を遺す。
と9章で語っているが、日本の現状としてはこれに近い状態を心配している例があふれているのではないかとも思う。
「金玉堂に満つるは、これを能く守る莫し。」などは、金融商品の元本割れや物価と収入の増減差などにあてはまるのではないだろうか。
少しでも資産の目減りはさせたくない、かといって物価は消費増税や輸入コスト、賃金アップ要請によって確実に緩やかではあるが上昇していっている。
給料アップと物価上昇はある意味、社会全体としてはワンセットである。これをうまく誤魔化すには、貿易などで経済圏を広げて海外とで格差を生み出すしかないわけだ。すると発展途上国の富を、先進国といわれるある意味経済的には有利な国々が吸い上げる構造となる。
植民地ではないが、経済的な植民地ともいえる。これは植民地政策を推し進めた歴史的な流れを、経済的な土俵に置き換えただけという状態でしかない。
これは資本主義の悪い活用例ともいえる側面だが、資本主義を通して多国籍企業が増えることで、政治的国境が商業活動によってあいまいになってきた例ともいえる。
江戸期に武士と商人の関係が、貨幣経済の浸透とともに変化していったようなことが今また起きているともいえるだろうか。
ここで「富貴にして驕るは、自ら其の咎を遺す。」へとつながるわけだが、金という虚構の資本を中心に持っている我々はいかに選択するかである。
「武士は食わねど高楊枝」といった選択をとれば、確実に明治時期の士族の憂き目を味わう人が出てくるだろう。
世界に打って出るのも一つだし、実体経済寄りに生活を少しシフトするのも一つの手ではあるだろう。
二度目になるが、土地が持つ生産性には限りがある。よってその生産で賄える実体経済は限りが出てくる。しかしサービス業など、現在の日本には信用や労働力といったコンテンツもある状況である。観光業や貿易に金融業、研究開発や湯治的なニュアンスとは少し異なるが、医療を中心に据えた観光があってもいいかもしれない。
変化を徒に恐れず、状況に即して変革していかねばならない。その変化を恐れて、変革を怠るのは、当人たちには自覚はなくとも「富貴にして驕るという」くだりに該当してしまうのが世の習いである。そのあたりは歴史が証明し、また生物の進化と絶滅も裏打ちしているともいえる。
功遂げて身の退くは、天の道なり。
こうした経済的な社会の流れをみて身の振り方を考えると、「功遂げて身の退くは、天の道なり。」をどうとらえるといいのかを悩まないだろうか?
私の勝手な妄想なのかもしれないが、先進国と呼ばれる存在は、人口の減少とともに経済成長にも足るを知る必要があるのではないかと思うのである。
そうしないと天然資源や人類社会にとって、がん細胞化してしまうのではないだろうか?
21世紀となり、現状の開拓すべき余地があまりない状況では、力によるごり押しからの卒業を考えないといけないのではないだろうか。
深海や宇宙に未開地を求める現状もあるにはあるが、いき過ぎた欲望からの行動はがん細胞化しているとしか言いようのない所業である。
がん細胞はもう一人の自分である。体内環境的に、革命せずにはおれなかった自分自身である。
免疫力の低下や遺伝子損傷など、がんに至る経路は様々かもしれない。
しかし体内の恒常性によって改善できないがん細胞が増えた時、がんと診断される。
免疫力強化や健康面に気をつけていても、老化とともにどうしても仕方のない面がある。まさに「持してこれを盈たすは、其の已むるに如かず。揣えてこれを鋭くするは、長く保つべからず。」といったところだろうか。
「足るを知る」、自分自身を制御することを老子は説くが、「功遂げて身の退くは、天の道なり。」とは多様性を認め、共生を模索する道ではないだろうか。
高度成長経済とともに日本社会は核家族化が進んだ。金の卵といった労働力の移動が根底にはあるのだが、その流れをぼちぼち見直す時に来ているのかもしれない。
移民受け入れを否定するつもりはないが、今の経済を維持しようと固執するあまりに移民政策を進めるのは違うのではないだろうか。
国土や文化といった風土を愛して居ついてくれる移民は大歓迎である。
しかし労働力の補充と言わんばかりに外国人労働者を受け入れた結果の移民受け入れは、入る側も受け入れ側にも双方にとって軋轢が多いだけで現実的ではない。
経済的に落ち着くこと、個人レベルで生活レベルを見直すことこそが、「功遂げて身の退くは、天の道なり。」ということではないだろうか。
結果、日本を出る選択肢もあるだろう。地域を挙げて観光業や教育業に舵をきるのもいいだろう。未来は選択の仕方によって、多岐にわたる可能性を秘めているのは確かである。個人で出来ることはたかが知れているが、協力し合うことで凄い事が達成できるのもまた事実である。
震災からの復興、戦後の焼け野原からの復興、明治維新、江戸幕府の誕生、鎌倉幕府の誕生など、歴史はいろいろな現状を打開してきたことを我々に教えてくれている。
さてあなたはどう生きるのだろう?
目覚め、選択を自らの責任で執るのだろうか。
もしくはもう活動しているのだろうか。
私は先をみるのが楽しみでならない。