第10章:営魄を載んじ{聖人の徳}
気を専らにし柔を致して、能く嬰児ならんか。
玄覧を滌除して、よく疵無からんか。
民を愛し国を治めて、能く以て知らるること無からんか。
天門開闔して、能く雌たらんか。
明白四達して、能く以て為すこと無からんか。
これを生じこれを畜い、生ずるも而も有とせず、為すも而も恃まず、長たるも而も宰たらず。
是れを玄徳と謂う。
『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第10章
精気を集中し身心を柔軟にして、嬰児(あかご)のようになることができようか。
不可思議な心の鏡(玄覧)を洗い清めて、少しのおちどもないようにできようか。
人民を愛し国を治めて、それで人に知られないでいることができようか。
万物の出てくる天門が開いたり閉じたりして活動するとき、雌のように静かな受け身でいることができようか。
すみからすみまではっきりとわかっていて、それで何事もしないでいることができようか。
ものを生み出して、ものを養い、ものを生み出しても、それを自分のものとはせず、大きな仕事をしても、それに頼ることはせず、首長(かしら)となっても、居すわってとりしきったりはしない。
以上が玄徳という。-不可思議な能力ーといわれる聖人の徳である。
人の名前や字ではないし、玄徳の前に劉備とかつきません!
10章は道家にとっての聖人のあり方を説いたお話ですね。
馴染みのない概念としては、玄徳なんて概念が出てきちゃいました。名をつけることで難しい事のように感じるかもしれませんが、実は自然の在り方に玄徳と名を与えて括っているだけではないかと思います。
まあ人の身で、自然の在り方を体現しようというのがそもそも難しいんですがね。
人は社会性を持ち、社会の中で生きるという点。
食べないと生活できない点。
欲求を持っていることから、人であることを受け入れたままで、その辺りの矛盾が生じるかもしれない自分自身に折り合いをつける必要がある点。
自然と社会システムの違いが、一番折り合い難い点であるかもしれません。
ものを生み出して、ものを養い、ものを生み出しても、それを自分のものとはせず、大きな仕事をしても、それに頼ることはせず、首長(かしら)となっても、居すわってとりしきったりはしない。
普通は、なかなか理解できん境地ですよね。会社に例えると、折角苦労して作った会社を、私物化しないという状況と似ていると思う。
でもなかなかどうして、手柄は誇りたいし、過去の実績でもってノルマが未達でも給料はもらいたい。できるなら偉そうにもしたいというかそれに酔いたい。そして根本的には楽したいですよね。人間は複雑なものを嫌う傾向にあるので尚更ですよね。
普通の人としてはそんなことを望んでしまうし、社会システム的には信賞必罰の信賞枠で既得権益化したりする手もあったりするから何とも言えませんよね。
仕事が常に思いの通りに進むならば、おそらく人はそこまで既得権益などで安定を求めたりしないと思います。
大きな儲けを生みだせる方法があったとしても、常に成果が出せるわけでなく、しかも成果を出す工程が大変だとするならば楽をしたい。安全を確保したい。
すでに結構貢献したんだから、まだ貢献してない奴にも働かせたいと考えてしまうのが人なのでしょう。
本当は適材適所ってなもので、向き不向きもあるし、常に大きな成果を出すという芸当は無理があると思います。それでも今日と明日からの糧を得なければいけない。だからこそ人は安定を求めるために、大きな仕事の功績を恃みたいし、首長になれたらその権力を活用したい。そして権力が行使できるならば、権力を行使し続けたいと思ってしまうのでしょう。
たとえ自分の能力が足りなくても、足を引っ張ってでも、他にできる存在を蹴落としてでも、自分を優位にしておきたいのでしょうね。
その結果が組織の適応能力の低下、存続維持のマイナスになったとしてもある意味関係ないんでしょうね。自然でこのような暴挙を行えば、やがて淘汰されて消えるだけなんですがね。世の無常と、盛者必衰を理解して行動してほしい限りです。
なまじ社会を作ることで生活に余裕が出てくると、人は堕落しやすいようです。堕落というかどちらかと言うと、勘違いですかね。
指揮権を持っていることが偉いという勘違い。偉いのではなくて、ただの役割でしかないということを忘れちゃうんでしょうね。
まあその地位に就くために、競争を勝ち残る必要があった。能力を証明する必要があったという意味では、偉かったのかもしれません。が、勘違いしてしまったら、今まで積み上げたものをすべて地になげうつ行為だと理解できない。いや、したくないんでしょうね。だから大きな実績を恃みにしてしまう。既得権益化してでも、自分を大きく安全に保とうとしてしまう。責務よりも権利の行使を求めてしまう。
人偏に為すと書いて、偽と言われても仕方ない実績を人類は積んできてしまったんでしょうね。
それを老子は厭(いと)い、自然に倣えというのです。
老子の生きた春秋戦国時代は、多くの国が淘汰されていった時代でした。そうした経験や過程を見る限りで、人は自然を見倣って職責を全うし、余計なことに手を出して不幸を生みださないことに重きをおいたのだと思います。
その結果が玄徳となるわけです。玄は根源としての意味を持たせたのだと思います。徳の根源、まさに道ですね。