第16章:虚を致すこと極まり{「道」の体験3}
夫れ物の芸芸たる、各々其の根に復帰す。根に帰るを静と曰い、是れを命に復ると謂う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰い、常を知らざれば、妄作して凶なり。
常を知れば容なり。容は乃ち公なり、公は乃ち王なり、王は乃ち天なり、天は乃ち道なり、道は乃ち久し。身を没うるまで殆うからず。
『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第16章
物は盛んに繁茂しているが、それぞれにその生まれ出でた根もとに帰っていくものだ。根もとに帰っていることは深い静寂に入ることだといわれ、それはまた本来の運命にたち戻ることだといわれる。運命にたちもどることは、一定して変わることのない常道といわれ、この一定不変の常道をわきまえていると明智とよばれるが、常道を知らないでいると、でたらめなことをして悪い結果におちいる。
一定不変の常道をわきまえていれば、どんなことでも包容できる。すべてを包容できれば、それが偏りのない公平無私であれば、それが王者の徳であり、王者と一致すれば、それは天のはたらきであり、天と一致すれば、それは「道」とも一致し、「道」と一致すれば、それは永久である。このような人は、その生涯を通じて危険にあうことがない。
今回は諸行無常というか、陰陽消長について語っているのではないだろうか
夏には草木が繁茂し、秋や冬をへることで草木は勢いを落とす。このサイクルは普遍的な世の流れであり、秋や冬に勢いを落とし枯れると言えども、けっして滅びるわけではない。
また春になり、温かくなると種や根から新たに芽が萌え出す。そして新たな生を謳歌し、寒さの到来と共に新たな可能性を託して静へと還るサイクルを繰り返す。
仏教では時の流れと共に移ろう世の流れを諸行無常という。常に変わらないもの等存在しないというわけだ。陰陽消長もまた同じく陰が極まると陽が芽生え成長すると共に、極まった陰は減退していくが陰陽の根本は何ひとつ増減せずにその表情を変えるだけであるという。諸行は無常であり、色即是空ということだろうか。
ただこの変化のサイクルは不変であり、よせてはかえす波のようなものだ。だから一時の変化を嘆き悲しむよりも、行くを見送り新たにより好く迎え入れる段取りをするのがいいのだろう。件の文章には下記とある。
これは賢しらに危ない綱渡りを繰り返すのではなく、時機に配慮し、流れをみれば綱渡りをする必要が無いということではないだろうか。越冬するもよし、渡りに出るもよし、はたまた冬眠してもいいというところか。
配慮するは天のはたらきと一致する事であり、状況にもよるが基本的には時機を誤ってはいけないということだろう。
その為にも心を虚しくし、私情をはいして括目する必要があるだろう。
曇りなき眼で情勢をよみ、機会をうかがう体力がいる。そして繁茂する時にはしっかり謳歌し、また静に備える。常に最高潮を望むのは欲が過ぎ、一時の減退にも備えて事にあたる余裕をもつ。そして一進一退は世のならいということだろうか。
一時の逆境にめげるようでは道にかなわない。幾度と繰り返す進退の中に道を見い出す必要があるのだろう。
気になる単語
篤し:じっくりと、手厚く、念を入れ
芸芸たる:数が多い(中国語の古文的表現)
作こる:つくりだす、たがやす、実り、なす、なる、する、はたらく、盛んにする
妄作して:みだりになす、でたらめになす
容:いれる、かたち、ゆるす、ゆとりがある、たやすい
公:かたよらない、ただしい、共通の、すべてにあてはまる、
王:きみ、最も力のある者、第一人者
殆うい:あやうい、あぶない、あやぶむ、ほとんど、おおかた。