第6章:谷神は死せず{「道」のはたらき2}
是れを玄牝と謂う。
玄牝の門、
是を天地の根と謂う。
緜緜として存する若く、
これを用いて勤(尽:つ)きず。
『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第6章
永遠の生命で死に絶えることがない。
それを玄牝=神秘な雌のはたらきとよぶのだ。
神秘な雌が物を生み出すその陰門、
それをこそ天地もそこから出てくる、天地の根源とよぶのだ。
はっきりしないおぼろげなところに何かが有るようで、
そのはたらきは尽きはてることがない。
この章は自然(道)の不思議を提起する章なのだろう。
自然のよく解らないはたらきである、萬物を生化する様子を提起しているのだろう。いきなり無から有を生じるという訳でなく、また神が万物を創世したと説くのでもない。老子は自然が多様性を生み出していく様を、女性=雌=陰の神秘として認識させようと試みているのである。
また玄とは黒の意でもあり、始めの黒、ゆえに玄と著したのだろう。
この辺は、東洋思想の生数の概念が根底にあるのだと思う。
※天一=形而上の水と名付けられた概念=黒=対極図中の至陰
そしてそのはっきりとせずに、「結果が在るのだから、生み出したものはいるのだ」というおぼろげな推測の域をでない認識をいかに理解するか。その不思議に子を産みだす不思議を重ねる事で、身近な不思議と根底は同じだと例える事で認識放棄を促さずに何とか理解できないかと意図したのではないだろうか。
ゆえに「いきなり下世話になったのではないか?」、「なぜここでこの様な話が出るのか」という疑問は、おそらく大きすぎてよく解らないが、凄い何かが有るという事を何とか思考放棄させないで認識させようとした結果ではないかと思うのだ。
そして谷間の地中より水が出る不思議をなぞらえる事で、自然もそのような不思議から生じているのだ。そしてそのはたらきは、谷底の水のように、川の如く尽きる事無く作用し続けているのだと結んでいるのだろう。
結論としては
この章の注目したい点は、自然の分化による多様性を何とか思考放棄せずに認識したいと考えた工夫のように思う。
世界の神話では、神が万物を創造したり生みだしたりする。中国でも盤古という存在から、万物が化生していく神話などがある。老子の時代の認識ではどういった創世認識が一般的だったのか、筆者はよく解らない。
しかし老子は、自然のはたらき(道)によって、さまざまな不思議が存在するのだという事を提示したかったのだろう。その意図はおそらく、人の思考傾向にたいする新たな提案ではなかったのだろうか。
春秋戦国時代へとすすむ世の中はおそらく、唯物的に、近視眼的になりがちな認識が世の風潮ではなかっただろうか。そんな中で老子は、世界をそんなに狭く捉えるのではなく、もっと大局的に、バランス的に捉えないと大変ではないかと私見を投げかけたのではないだろうか。
スピリチアルという概念が、なにかの揺り戻しのようにもてはやされ出してきた昨今。
老子も当時は、今のスピリチアル的な存在だったのかもしれないと感じてしまう。
大きな流れとしては、歴史は何度も何度も行きつ戻りつ繰り返すのだろう。