自己啓発

老子を読んでみよう(17章目)

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第17章:大上たいじょうしもこれ有るを知る{理想の政治3}

老子
大上たいじょうしもこれ有るを知るのみ。其の次は親しみてこれをむ。其の次はこれをおそれる。其の次はこれをあなどる。

しん足らざれば、すなわち信ぜられざること有り。

ゆうとして其れげんおもくすれば、こうは成り事はげられて、百姓ひゃくせいは皆我は自然なりと謂わん。

『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第17章

KY
最もすぐれた君主というものでは、ことさらな政治はしないから、下々しもじもの民はただそういう人がいるということをわきまえるだけである。その次の君主では、恵みを施すから、民はその君主に親しみなついてめたたえるものである。その次の君主では、刑罰をきびしくするから、民はその君主をおそれることになる。さらにその次の君主では、民はその君主をあなどるようになる。

君主のほうに誠実さがたりないと(つまりよけいな小手先の政治をすると)、民は信頼しなくなるものだ。

君主がこせつかずに悠然(ゆったり)として、ことばを慎んで口出しをしなければ、それで仕事の成果はあがり事業は完成して、しかも人民たちはだれもが「自分はひとりでにこうなった」というであろう。

なかなか意味深な記述である

政治に限らず、医療や農業などでもそうなのではないかと思う。自然に任せながらも、環境をそれとなく整える。

このそれとなくというところが、ことさらな政策として小細工をろうさないということにつながるのではないだろうか。

手柄を誇るのではなく、先回りして全体的な環境を整える。必要となってから井戸を掘るのではなく、水辺を治水でもって確保しつつ、さらに地域環境保全にも同時に取り組む。さらに生物多様性を生みだすことで食物連鎖が生まれるから環境が整い発展しだす。先回りする点は水の循環を生む仕組みづくりであり、政治においては食糧自給と経済の二本立てで考えるべきだろう。

日本は経済でもって食糧確保を考えがちだが、変化が起きて余裕がなくなることが無いということはあり得ない。もしもに備えるという点では、地域での最低限の食糧自給は確保してしかるべきだと思うのだ。さらに天地からの恵みの余剰でもって経済を回すぐらいで考えないと、リストラという名の口減らしが起きれば治安の悪化もあるし、ただ上に居座っているだけではないかと侮られても仕方が無いというものだ。

すべては根底でつながっている

悠然とたたずむとは、広く高い視点で循環を考えることではないだろうか。入ると出るを把握して収支を治めることは、政治に限らず人体にも共通する概念だ。

ことさらに作為を労して命をつなごうとすると、かえって人体のバランスを崩してしまう。過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったもので、人体の代謝リズムを考えて収支を図る必要があるだろう。すると医食同源や飲食・運動・休息のバランスを考えるという人体環境を整える思考に到達する。

飲食と生活習慣を整えることで、常在菌とのお付き合いを考えようと環境を整える視点は年々高度になってきているが、実際におこなう根本の行動は昔ながらの良い生活習慣を踏襲する域をでない。

健康促進販売業界ともいえる健康産業では、こそく療法的にサプリや菌補充溶液を販売などしているが、菌の定着と育成という根本的な環境を整えるという意味では生活習慣を改めるほかないだろう。外からの移住組も、環境が整うことが無ければ定住が適わないのは、人も菌も同じである。

いくら補助金が出るからといっても、危険で劣悪な環境に移住しようとはあまり思わないだろう。もし移住を希望する者があるならば、ある側面に近視眼的になりすぎいるというほかないだろう。現代日本の経済至上主義ともいえるような舵取りも、長い目で見るならば財産の切り売りで栄華を唱える近視眼的な政策でしかないと思う。

個人個人の健康を考える時でもそれは同じであり、生活習慣を整えることで基本の地力を整えることが最善だろう。盆や正月などのたまにはめを外すような非日常を設けることもいいだろう。しかし非日常が日常になるとき、生命の地力は荒廃し、余力のなさが不健康を自覚させるだろう。

政治や健康の大きな指針とは、そういった意味では非常に似ているといえるのではないだろうか。

 

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