第7章:天は長く地は久し{無私のすすめ}
天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す。
是を以て聖人は、其の身を後にして而も身は先んじ、其の身を外にして而も身は存す。
其の無私なるを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。
『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第7章
天地の大自然がそのように永久の存在をつづけていけるのは、天も地も無心であって自分で生きつづけようなどとはしないから、だからこそ長く生きつづけることができるのだ。
それゆえ、「道」と一体になって天地の道理をわきまえた聖人は、わが身を人の後におきながら、それでいておのずからに人に推されて先立ち、わが身を人の外側におきながら、それでいておのずからに人に招かれてそこにいる。
それは、私心私欲をもたないからではなかろうか。だからこそ、かえって自分をつらぬいていけるのだ。
道に則った在り方を説いています。
出だしは自然に学ぶことによって、無私無欲のような境地でもって、自分の役割を果たす事を強調しているように思えます。
そうする事で実力を認めさせ、またその人となりが好ましく、かつ敵意を感じさせないことで一歩引いていてもおのずと人に実力から必要とされ、また徒党を組むこと無くとも、自然と人柄や実力をたのまれて人に招かれてそこにいるものだと説かれています。
そして最後に、補足のように推測が述べられています。それは私心私欲を持たずに、たんたんと自分の役割を果たすからこそではないかと読み取れるのです。
この章でまず筆者が感じるのは、背伸びをせずに、身の丈に合った生き方をすべきだというように感じていました。
そしてしばらく時をおいて読み直してみると、今度は「近視眼的にならずに、大局的に情勢を把握しながら全体像から役割を見い出して仕事をこなす必要があるのだ」と説かれているように感じました。
実力をたのまれて周りから必要とされるには、その場その場の場当たり的な対応ではなかなか成功は長続きしないように思えてきたからです。真面目に仕事をこなしていると、野球でいうところの打ち頃な球が来る事があります。
そうした絶好球を捉えて成果を上げることは当たり前であり、他の人がなかなか解決できないような難問を解決するのか。はたまたタイミングよく、または段取りよく動くことで成功を引き寄せ続けることが周りに一目おかれ、また必要とされる事では無いかと感じるようになってきたからでしょうか。
社会に出ると、当たり前のことを当たり前にこなすという事が、結構難しいのではないかと感じるようになりました。それはいろいろな経験をする過程で、時に油断や慢心から失敗し、また時には疲労や仕事量から手が足りずに失敗する。そんな失敗が積み重なると、今度は大きな失敗につながることで進退がいつの間にか、二進も三進もつかなくなるような経験をしたからでしょうか。
おそらく皆さんも致命的な経験はないとしても、思い当たる様なちょっとした失敗の経験ぐらいはあるのではないでしょうか。
まだ約束の時間には間に合うと油断していて遅刻してしまった。まだ若いから、まだ無理がきくはずと頑張り過ぎて身心を壊す。または調子が狂い、不調となり易くなってしまった。自分では気づかずに失敗の階段を上ってしまっていて、気づいた時にはどうしようもなくなっていた。
大きな失敗から小さな失敗までいろいろとありますが、大抵の事は当たり前の事を当たり前に、必要なタイミングで処理できていたら大事にはならないものではないでしょうか。「大事の前の小事」なんて諺もありますが、成功し続けているように見える人はたいがい努力を怠らずに、また備えを怠らない人ではないだろうか。
ただそんな方々でも努力のし過ぎで体を壊したり、バランスを崩してしまうこともあるようだ。そのように世に評価された極一部の方々以外にも、努力の結果が世に評価されること無く埋もれていく存在も数多くいるのが世の中だ。
がむしゃらに努力して地力を蓄えることができる才能。そして客観的に状況を分析把握して、その情報を有効活用できる才能。必要なタイミングに必要な実力を発揮することができる才能。など、大成するにはいろいろな要素が必要なようだ。
老子の説く「道」は、その中でも客観視するバランス感覚と、タイミングを違わずに読み取り活用する分野を特に強調しているように感じる。そしてその近視眼的にならない感覚や、タイミングを合わせるために気負い過ぎぬよう。そして適度なモチベーションを維持する為に、欲張らずに足るを知ることを殊更に強調している様に感じる。
焦点を自分に当て続けるのでなく、全体の中の自分を如何に自由にするか。
自分中心に世界を回し続けることは、ほぼ不可能だろう。一時的に何かのはずみで注目されることがあったとしても、自分に都合が好いように世界は回り続けないものだ。これにたいして老子は、世界の中心とは何ぞや?世界には、いろいろな中心があるのではないか?
自分の為す役割で、中心に近づけるように私心や私欲に煩わされること無く役割を全うすべきである。天地は世界の中心であろうとしているわけではなく、天や地として存在を全うしているから世界に無くてはならないのである。そのように自分の役割を全うすることで、立つ瀬ができるのであると説くのである。
この時の役割とは、人が設けた役割というよりも、その人が属している世界の成り立ちを考えた時の役割である。生物多様性のように、世界の成り立ちを考えた時、様々な存在が相互に影響し合って世界は成り立っていることがわかる。一見不要なように見える存在でも、それが存在しないとバランスが崩れることがあるのだ。
そのような視点で世界と自分を捉えた時に、いったい自分はどういった役割を担っているのか。または担わされているのかということである。これが認識できると、役割を変化させる事も出来るかもしれないし、また役割の果し方を変えることができるかもしれないということだ。
場にたいしてどの様に影響をあたえるかを、普段から考えている存在はそうたいしてはいないだろう。普通は、場に影響をあたえている事さえも認識していないのかもしれない。極一部の人達は場と云うものを意識して行動し、積極的に自分たちにとって好ましい場へと変化させようとしている。
場への働きかけは、掃除や整備的な物理的なものから、声掛けや行動による雰囲気的なものが一般的だろうか。中には儀式的な様式をとる事によって、場へ影響をあたえる人々もいる。こうした意識的、または無意識というか習慣的な影響をあたえる行動は、個人の普段の生き方によって培われてきた雰囲気だともいえる。
こうしたその場を構築するための役割を存在するだけで担うのが事実であり、そうした役割を好ましく、また周囲にとって有益な役割へと行動しようとするのが人なのかもしれない。それが有益であり、その有益性を認識した時には作為をもってしまうのが知恵あるものの性なのかも知れない。
ただその影響がどの様に及ぶかによっては、バランスを崩すことで回りまわって不利益につながる事がある。身近なものならば、過度な除菌や殺菌であったり、生物多様性を崩す人の行動だろうか。化学肥料や農薬しかり、害獣や害鳥しかりである。
人にとって一時的に利益あることが、必ずしも永続性のある利益へとつながるとは限らないのである。どちらかと言うと生態系を崩すことで自然バランスを混乱させ、その混乱によって人間にも不利益をこうむる事の方が多いのかもしれない。
自然環境の破壊などはその最たる例といえるだろう。産業革命以降、先進国とよばれる国の活動を中心に、如何に自然バランスを乱すことで全体にとっての不利益を招いたか。先に利益を得た国々に、補償や賠償を求める声が出てくるのも仕方のない事だろう。
ただそうした声はえてして力や発言権が弱い存在であることが多く、黙殺されているのが世界の時勢であるが、客観的に事象を観た時にどう感じるかは考える必要があるだろう。そして文明国だというからには、平等や公平ということをしっかりと考えた言行をすべき必要があるだろう。
老子は五章で、「口かずが多いと、しばしばゆきづまる。黙ってからっぽの心を守っていくにこしたことはない。それが聖人のおのずからなやり方だ。」と説くくだりがあるが、下手な言い訳や責任転嫁はこの言葉がしっくりくる状況だろうか。
この章で老子が伝えようとしているのは、無為自然という在り方だろう!
この章で老子が伝えようとする「天地の大自然がそのように永久の存在をつづけていけるのは、天も地も無心であって自分で生きつづけようなどとはしないから、だからこそ長く生きつづけることができるのだ。」の神髄も、五章の云わんとする事に同じく無為自然であろう。
人の小賢しい作為が、全体の調和を乱すことで不利益や混乱をもたらすのだから、無為にして自然の流れに調和することこそが一番重要ではないだろうかと提案するのである。
そして作為と無為の境界は、私心私欲ではないだろうかと老子はいうのである。公のバランスをより善くしていくのは、実は自然なことである。環境に調和していく事が生物多様性であると同時に、生物多様性が環境を形作っているともいえるからである。
私心私欲を離れた役割は、自然の調和と和した時に成果が著しくあがるものである。それは農業の世界では豊作として表れ、狩猟採取の世界ならば豊りょうとなる。奇跡のリンゴで有名な木村 秋則さんも、そういった意味で解釈すると「道」に適った農法をされているといえるのだと思う。
無為自然という概念が、どこまでの作為を受け入れるのかと考えた時、すでに無為ではなくなっているのだろう。しかしその線引きを無意識に選べる存在が老子の云う聖人なのだろう。
この章で思う事
場を担う役割という認識を分析してみる事で、自由を得ることができるようになるのかもしれない。そして場の調和を考えた時、私心私欲が無ければ立ち位置は自由となり、役割もまた囚われがなくなることで自由となるのだと思う。
老子は常に変化する事を許容することを提案してきている。ただしその変化は不易流行的なものである。た易く変えてはいけないのが道であって、道にそぐわない流れは変化し続けなければいけないのだと思う。得てして人は私心や私欲によって、守るべき点を変化させようとし、変化してしまうものをとどめようと道理を無視する。
すると道理によって報いを受けるので、人は嘆き苦しむのではないかと思う。初めに道理を破らなければ、嘆き苦しむ人も減るのである。因果応報で嘆き苦しむならば、身から出た錆といえるだろうが、えてして世の中は当事者以外も巻き込まれるのである。
因果応報を考えた時、巻き込まない事も大切であると同時に、巻き込まれない事も大切なのだろう。その答えは「道」に問うほかないのかもしれないが。