老壮思想との出会い
筆者は老子のバランス思想ともいえる無知無欲な思想に、中三か高校辺りで初めて遭遇した。
きっかけは父親との会話からであったように思う。初めて読んだ老子関連の書籍は、徳間書店の古典コミックシリーズ『老子』真崎 守(著)という本だった。
この本は、マンガになっているので古典を読み解く必要がない。ただそこで語られる老子像はあくまでも真崎 守氏を通したものとなるが、それでも古典を読み解くよりはイメージしやすく個人的にはよい出会いだったように思う。
その後も何冊か老子をあつかう書籍を購入しながら読んだが、講談社学術文庫の『老子』-無知無欲のすすめ-(著)金谷 治という本が個人的にはしっくりときた。この本は白文と書下し文、そして金谷先生の解説からなっている。
数ある老子の道徳経を金谷先生が網羅して編纂してくれているので、古人の書き写し違いやアレンジによる変遷なども極力考慮して編纂されている逸品である。これこそ正解だという定型を嫌う老子ではあるが、時代と共に定型が変わるにしても出来るだけ不易流行であってほしい。これこそ本質であると誰かが言ったとしても、やはりその本質はその人を通したものとなる。
老子が語る「道の道とすべきは、常の道に非ず。」という書き出しはそのことを言っているのだろう。道とは厳密にこれだと規定するものではなく、事象を俯瞰してとらえた時に今回はこの点が外せないからその点を考慮したらこれが道だとなる。すると「今回」とか「自分は」といった立ち位置が変わる事によって、道は常に微妙に変化し続けるようなのだ。
という事は・・・
まさに不易流行ともいえる柔軟さをもったものこそが道と言えると思う。
そんな捉え処のない鵺的な話をすると、大抵の人は混乱したり煙にまかれたと感じる。しかし判断に迷った時に、自分としては譲れ無い一分はどこだろうかと考え把握することで、状況を観ながら変幻自在な判断や立ち振る舞いをするにはそう考えるしかないのである。
結果と出発点だけをみると節操無く鵺的な思考に感じるかもしれない。しかしその場その時の現状に置いて、判断の連続を強いられる時には武士の一分ともいえる一所懸命な何かをあらかじめ明かにしておく必要がある。
自分の守るべき一所を守れるならば、その他の譲れる場所は欲張らずに譲ればいいともいえる。その時に譲ったものも長い目で観た時には、譲ったのか預けたのか判らなくなる事が多々あるのが人生であるのだから。
老子の生きた時代
中国の春秋戦国時代を生きたとされる老子にとって、生き残ることが第一であり、また従属を強いられ抑圧の中で腐るのでなく、自由に自分らしく生きるという事を大事にされた。その在り方ゆえのおもいっきりのよさが老子の道徳経にはある。
戦国時代はどうしても、いろいろなしがらみや利権に縛られてどんどん身動きが取れなくなっていく。そんなしがらみや束縛を、力でもって自分色に染めていこうという覇権主義が戦国時代たる所以であるといえる。
しかしそうした世の在り方に対して、老子は異を唱えるのである。もっと自然のように生き方や存在のしかたに対して、多様性を認めて寛容であるべきだと説くのである。
「将に天下を取らんと欲してこれを為すは、吾れ其の得ざるを見るのみ。」と言うくだりがある。これこそがまさに「無理な犠牲を強いるよりも多様性を認めよ。」といっているように思う。老子が諸侯が待つ覇権主義を棄て、自然に在るがままに生きていけばいいではないかと思いを込めたのだだと思うからだ。
根底には当時の有力者の覇権主義を非難し、一部の我欲に付き合わされて酷い目に合う大衆の悲哀と大局から観た時の人の滑稽さを嘆いているのだと思う。老子的には、人本来の自然で素朴な生き方をすれば、傷つくものは少なくそれなりに人生を謳歌できるではないかと憤ったのだと思う。
そこから作為的な行動(策謀や過度な利己的行動)を慎み、無為で自然に寄り添い流れに即して生きるべきだと説いているのである。余談ではあるが、偽という漢字はこの思想に関係するのかも知れない。なぜならば、人の為すと書いて偽となるからだ。
この無為自然の思想を筆者的には、大局的に事象を捉える事で全体の流れを理解した行動をとるべきであると解釈している。そしてこの大局的に事象を捉えるといった時の対象範囲を、どれだけに広げるのかという点にポイントがあるように思うのだ。
老子的にはこの対象範囲が人社会や地域社会などの文化的なコミュニティーだけにとどまらずに、自然の営みを含めた範囲にまで拡大することで利己的になり過ぎな価値観に警鐘を与えているのではないかと思う。そうする事で価値観の多様性を再認識し、権力闘争や利己的に走り過ぎる事がいかに浅ましく分別のない行動であるのかを気付かせまた危険な行動であるかを理解させたかったのではないだろうか。
例えるならば、学校で喧嘩一番の名声を得る事にどれほどの意味があるのかと言う様なことだ。一番を争う当事者達にはそれこそ一番の関心事であり、何を犠牲にしても手にしたいステータスなのだろう。
しかしはたしてその考えが社会一般的に観てどうだろう?筆者的には、対岸の火事的に傍観するならば娯楽要素の強い話でしかない。映画や物語のテーマとしてもよくつかわれる点からみても、その程度の認識となるだろう。しかしその騒動に巻き込まれ迷惑をかけられる立場に立たされると意見は一変し、愚かな価値観の根絶すら図りかねないと思う。
そして多感な時代が過ぎて社会人になる頃には、愚かな価値観を持つ者が凄く滑稽に見える事だろう。上には上がいるし、社会システム的にみて学校喧嘩一番などの名声はマイナスのレッテルが貼られる対象でしかないからだ。
この様に狭い価値観でもってその場の行動をとると、黒歴史や後悔の本となるのである。もっと大きな視点からみれば、経済的な世界からみても環境破壊は立派なこの対象だろう。地球規模の自然バランスを崩す環境破壊、これはどれだけ愚かで手前勝手な行動なのだろうか。
老子はこうした極一部の狭い価値観で判断してしまい、大局に迷惑を与える事の愚かさと危険を説いているのだと思う。故に無為とは、為すべきで無いことをしないということであり、為すべき事をしない事では無いという事は知っておくべきだろう。幼い頃は、無為というからにはと屁理屈を捏ねて手前勝手な解釈をしたが、それも今となってはただの黒歴史といえるのかもしれない。
日常生活に疲れたり、迷った時にこそ考えて欲しい。本当に欲しいもの、したい事は何ですか?
自分が今どの様な状況に置かれていて、何が出来るのか。または何が出来ないのか。そしてこれから自分自身がどうしたいのか。または将来的にどう在りたいのか。
ここまで情報がそろってくると、現状確認と方向性がみえてくる。ただこの段階ですぐに思考を止めないでいただきたい。この段階は例えるならばあくまでも地図上に現在地と進みたい方向ないし目的地を記載しただけでしかないからだ。
奈良市から大阪市まで行きたい。今の時間と場所はここで、荷物と資金はこれだけある。例えるならこれだけの情報をとりあえず確認した様なものであるからだ。実際に移動するならば、荷物の大きさや重さ、それに資金の多寡によって移動手段は大きく変わってくるだろう。
人力である徒歩や自転車。もしくは車やバイク。それとも電車やタクシーなんて選択肢があるかもしれない。そうした移動手段が決まれば今度は順路を確認し、費用を確認して行動を開始しないだろうか?
こうした具体的な計画を思考を止めずにしてほしいのである。そしてその際のちょっとしたテクニックとして、目標という到着地点が明確ならば、そこに至るまでの小規模目標を設定しながらその都度現状確認と目標の再確認をしてほしいのだ。そうする事で問題点の洗い出しや対策を練ることができるだけでなく、現状の変化と価値観の変化からくる目標の微調整も可能となるからである。
と言う様な話はどちらかというと方法論に属する話ではあるが、老子を学べばより根源的な自分自身を探求する必要がある事が解る。それは老子が見栄や華美を嫌い実直で素朴を愛し、どちらかというと文化否定とも取れる様な事を書き遺している点からの推測である。
根拠は自分自身の深層心理からくる欲求を理解し、表層心理からくる飢えや焦りにも似た表面的な尽きぬ欲求に狂うというか振り回されないようにという警句めいた文言がある点である。この点を筆者は、身体が資本であり、色を餌に欲望に振り回されて畜舎につながれる社畜として身心をすり減らす事の矛盾を指摘しているようにも思える。
よい暮らしがしたくて、または家族によい暮らしをさせたくて。そんな思いを根源に、過労死を出しながらも死に物狂いで頑張る社会。または頑張る事が前提の厳しい価値観の社会を築いてきた今の日本。その結果、物質的な満足を追い求めて高度経済成長からバブル崩壊までを歩んできて日本はどうなっただろうか?
安心と安寧を求めていたはずが、いつの間にか目の前にぶら下げられた餌を求めて走らされる社会にすり替わっていった日本社会。頑張る事に疲れ、または飽きから頑張るペースを落とせば、減給やリストラという鞭を入れられるのが当たり前になった日本。
生きる事に必要な生活水準とは、一体どのレベルなのだろうか?贅沢を求めればきりがないのは当たり前として、ちょうどいいレベルとはいったいどの様な生活なのだろうか?この点を真剣に見つめ直すと見えてくるものがあるのではないだろうか。老子は言う。
老子名と身と孰(いず)れか親しき、身と貨と孰れか多(まさ)れる。得ると亡(うしな)うと孰れか病(うれい)ある。是の故に甚(はなはだ)だ愛(おし)めば必ず大いに費(つい)え、多く蔵すれば必ず厚く亡う。足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず。以て長久なるべし。『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第四十四章
この警句ともとれる言葉を悩んだ時こそ思い出してほしい。老子の神髄は、自分の望みを叶えるべく立ち位置を変化させながら中庸をいく事であると思う。
水は高きから低きへ流れる事は当たり前の道理だ。故に水を低きから高きへ戻そうと無理を願うのでなく、自分自身の立ち位置を変えてみる事で道理にかなう方法を考えるべきだと説いているようにも思えるからだ。しかもその工夫をする時に老子は、欲にかられて無理や無茶をしてはならないと表現を変えながら警句を残してくれている。
ゆえに私には老子の言葉が、公式や身近な道具のように思えて仕方ないのだ。存在を知っていても便利に活用しなければ無用の長物となる。先を行く者が残してくれた警句を、良薬口に苦しとするのか。それとも寒露とするのかはその人しだいであろう。現に刃物は危ないと言えども生活に無くてはならない生活道具だ。
老子の言葉もそれぐらい身近な参考意見として活用できるのが、本当は一番いいのだろう。だからこそ発想の転換になるかもしれない老子の助言を、悩んだ時や判断に迷う時に参考にしてほしい。老子自身が冒頭に常の道は道に非ずと書き残しているように、言葉の解釈や活用方法は無限にあるのだから。