第4章:道は沖しきもの{「道」のはたらき1}
これを用うれば或た盈たず。
淵として万物の宗たるに似たり。
其の鋭を挫いて、
其の粉を解き、
其の光を和げて、
其の塵に同ず。
湛として存する或るに似たり。
吾れ、誰の子なるかを知らず、
帝の先に象たり。
『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第4章
そのからっぽが何かで満たされたりすることは決してない。
満たされていると、それを使い果たせば終りであって有限だが、
からっぽであるからこそ、無限のはたらきが出てくるのだ。
道とは有限の対象物では無く、システムのように変化させていく過程を「道」と名し、融通無碍に変化するさまは一定の囚われを持たずに一見虚しいもののようなさまですらある。
そのようとして知れない無限のはたらきは、
底なしの淵のように深々としていて理解が及ばず、
万物の根源の様にようとして知れない。
それ(道)はすべての鋭さをくじいて鈍くし、すべてのもつれを解きほぐし、すべての輝きをおさえやわらげ、すべての塵とひとつになる。
その様は湛えた水のように奥深くて、どうやら何かが存在しているらしいとしか解らないのである。
わたしは、それ(道)が何ものの子であるかを知らないが、
万物を生み出した天帝のさらに祖先の象(在り様)のようである。
「道」の在り様を説いたもののようです。
第一章で「道」の概念といったような「道」についての解説がありました。
第二章では「道」を体現するとは、如何なるものかについて説きます。
第三章では「道」を体現する心構えのような、より踏み込んだ考え方について説いています。
そして今回の第四章では、「道」とは何なのかという事を改めて解説しているようです。
その解説は第一章で説いた概念的な解説とは異なり、「道」を観察してみた感じをさらっと解説しているような感じです。
「道」とは働きであり、特定の何かではないと言う様な解説から始まります。そしてその解説をより補足するように、今度はその働きを説きます。そして最後にその働きから、来歴となる様な老子の解説がはいります。
この老子の解説にある万物を生み出した天帝以前という考え方は、易の概念にある太極から両儀が別れて陰陽ができ。陰陽から四象が誕生し、そこからさらに八卦が派生して萬物へとどんどん分化していく下りではないかと思う。そしておそらく老子が言いたいのは、「道」は太極以前の存在であるという事では無いかと思うのだ。
その根拠は「すべての鋭さをくじいて鈍くし、すべてのもつれを解きほぐし、すべての輝きをおさえやわらげ、すべての塵とひとつになる。その様は湛えた水のように奥深くて、どうやら何かが存在しているらしいとしか解らないのである。」という「道」の働きの補足部分である。
太極からどんどん分化していくにしたがって機能や働きはどんどん先鋭化というか専門化していくのだが、「道」の働きはどちらかというと反対に補完的というか対となる専門性を統合しながら存在を純化するような解説だからである。
これは陰と陽が合わさることで太極となる様に、働きが補完されることでより働きが安定し、さらに汎用性と能率性が向上する利点を第一章の固定概念に囚われないという示唆から導きだせるからである。
穿った考え方をすれば、これはおそらく「道」の働きが分化と対になる統合化的な働きであると示唆しているのではないかと思うのだが、働きのベクトルを断定して考える時点で「道」の働きを曲解してしまう可能性があるのだから気をつけないといけない点なのかもしれない。
第四章で筆者が注目したい点
「道」とは概念やシステム的なものでありながらも、ただ特定の断定されたものではないという事である。第一章の常の道は道でないという件からも特定概念とは言えないのだが、それでも「道」という概念はあるのだと主張している点に注目したい。
その為に「道」の働きをあげて、「道」とは萬物のより根源的な存在なのだと来歴を示唆することで曖昧模糊とした「道」を概念化しようとしているのだろう。