自己啓発

老子を読んでみよう(12章目)

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第12章:五色は人の目を{贅沢は人を狂わす}

老子
五色は人の目をしてもうならしむ。

五音ごいんは人の耳をしてろうならしむ。

五味ごみは人の口をしてたがわしむ。

馳騁畋猟ちていでんりょうは、人の心をしてきょうを発せしむ。

得難えがたききのは、人の行ないをしてさまたげしむ。

ここを以て聖人は、腹を為して目を為さず。故に彼れをてて此れを取る。

『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第12章

KY
彩色豊かで綺麗なものは人の目をくらませて、正常に見えなくしてしまう。

豊かな音曲は人の耳を喜ばせて、まことの音を聞き取れなくしてしまう。

美味は人の口を楽しませて、爽やかな素味を解らなくしてしまう。

乗馬や狩猟の歓楽は、人の心を狂わせてしまう。

手に入りにくい珍しい品は、人の行動を誤らせてしまう。

それ故に聖人はお腹を満たすことにつとめ、感覚の楽しみを追及するようなことはしない。だからあちらの外にあるものはうち捨てて、こちらの内にあるものを取るのだ。

文化的である事と自然である事の不相違

老子は囚われや偏ることを嫌う傾向がある。それは非常に合理的な判断や行動をたっとぶからであり、見栄から行動を誤らせる事を殊更に嫌うからである。

春秋戦国時代、大小の勢力が小競り合いをする中でたくさんの興亡があったのだろう。その過程で多くの弱者が巻き込まれ、いろいろな不幸があったと思う。それらの攻防の切っ掛けとなる戦争の発端は、些細な言いがかりや欲からの行動が多かったのだろう。またこの頃は、国力や文明の程度は人口に直結していたと思う。そして国という組織を目指して統廃合を繰り返しながら、古代から組織はだんだんと大きくなってきたのだろう。初期の頃は国というよりは、ゆうという村落単位での組織ではなかっただろうか。

※邑とは、総戸数がたいしてない村の事だと昔に聞いた事がある。邑の人口が増えるに従い村や町となり、やがて街が国となっていく。人口と戦力、人口と文化力というものは古代史の中ではある程度比例しているようだ。

統合が進み勢力が大きくなればなるほど、権力者に富と名声が集まったことだろう。その結果、失う事を恐れるあまりに正常な判断ができなくなる。こけにされて黙っている事が、時には弱腰外交となり付け込まれる。反対にいきがり過ぎる事によって国力を落し、衰亡の憂き目をみた国もあっただろう。

そうした文化的土壌に老子は生きていたのだと思う。そうした人の愚かさに老子は何を思ったのだろうか。

おそらく人のなんと無駄の多い事かと嘆いたのではないだろうか。

その結果が、虚飾や華美を嫌うスタンスになっていったのではないかと思うのだ。老子の自然への回帰は、おそらくこのような背景があるのではないだろうかと筆者は思うのである。

自然と文明技術の発展

文化発展は技術的な進歩を伴うので、ある意味人類史的には望ましいのだろう。しかし霊性の進歩を中心に考えた時には、物質的な文化が霊的文化の発展を阻害してしまっている点は否めないだろう。

物質的文化と霊的文化

共に相反するとまでは言わないが、相性が悪くなりやすいのかもしれない。何故なら未熟な精神性では、物質的な快楽や刹那的な満足感に毒されてしまうように思われるからだ。なまじ寿命が長ければ刹那的な物質的快楽に飽きる事で、より高次の欲求へと昇華する過程で霊的文化へと移行することもあるかもしれない。

しかし世界史を観てみると、シャーマニズム的文化でもって高度な文明を維持した試しは余り無いのではないだろうか。どちらかというと物質的な文明による侵略戦争に敗れ、衰滅している文明の方が多いのではないだろうか。

また唯物的な文化を持つ文明には、快楽や利便性を武器に土着の文化を侵食してしまうことが世の常なのかもしれない。

これは文化的侵略ともいえるのかもしれないが、侵略を望む人々の選択によるところが大きいので何とも言えないところではある。できるならば、日本が古来よりおこなっている文化を取り入れるような工程が踏めるといいのだろう。

ただ現在の商業的パッケージともいえる文化は、版権というか知的財産権の観点からそうしたカスタマイズともいえるいいとこどりはできないようになってきている。その為にグローバルであることが多様性を否定してしまう状況になっているのではないかとも思えてしまう。

現代社会は、個人的な主観としては「いき過ぎた文化の揺り戻し」ともいえる文化的多様性を求める過渡期にあたると思われる。

その中には利便性を追求しつつも、同時に精神性を重んじることで霊性を尊重する文化が育まれてきていると感じている。この過渡期にあたる今、生き方や在り方の多様性の試行錯誤が抑圧されないことを願うばかりである。

生き物としての人生。知的生命体としての人生。

人は生物であると同時に、知的生命体でもある。これは相反するものではないのだが、野生と原始感覚を混同してしまうと相反してしまうように感じるのだから不思議である。野生や原始感覚という概念が、知性から遠ざかるようなイメージはないだろうか。

しかし考えていただきたい、知性とは何なのだろうか?
野生や原始感覚とは、並び立つベクトルは異にする概念ではないだろうか?

野生の中にも知性は宿り活動しているし、原始感覚と知性というのは実は両方共に同時に必要な概念なのではないかとも思うのである。

一流のレベルに達した人の感覚とは感性を働かせつつも、経験や知恵がその裏打ちをしているような思われるからだ。頭でっかちなだけでは、知識は知恵たりえない。応用の効かない知識は知恵たりえないだけでなく、時に不安や不和をもたらす。

「生兵法は怪我のもと」などのことわざは、その警句ではなかろうか?

さて、そう考えると『原始感覚とは何なのか?』この問いにたどり着いてしまう。

実は、老子の「道」を尊ぶ感性とは、この原始感覚に由来するものではないかと筆者は思えてならない。なぜならば職人やある程度の感性を参考にする一流どころの所作を見聞きしていると、「原始感覚による本能的な観察と推考」というものがこの世にはあるのではないかと筆者は考えているからだ。

その観点から人生を振り返ると、単純作業のような工程の中での些末な変化。物事を成功と失敗に分け、成功の中にも大成功とそうでない成功を分けた時にでる微妙な誤差。この変化に気づけるかどうかが「道」に通じる学びではないかと思えてしまう。

筆者が今年、バイク移動中に体調が崩れて夜道で身体を休めながら観察している時にふとひらめいた気づきである。

「道」とは、先ずは生き残ることであり、次に失敗を遠ざけるものではないだろうか?そして更に理解を進めれば、失敗などと消極的な話ではなく、如何に成功させるか、または如何に大成功させるかを理解する概念ではないかと思えたのである。

「生き残る、失敗を遠ざける」などのリスク管理は、知識だけでなく勘のような感覚が大切である。
それは同じく、「成功する、大成功する」という直観にも通じるのではないだろうか?

原始感覚を生物としての自分が磨き、その生き方の中で知恵を学ぶ。やがてその知恵が原始感覚とあいまった時、知的生命体としての人生が始まるのではなかっただろうか?おそらく赤子からの発達の段階の中で、我々はこの行程を体験してきているはずなのである。

それがいつしか、知恵を得る一方法として先ず知識を得るという事になれ過ぎたあまり、知的生命体としての在り方を忘れ去ってしまっているのではないだろうか?

老子のいわんとしている点は、素直であれという事に尽きるだろう。

では素直とはどういうことなのだろうか?在るがままを理解するという事は、どういうことなのだろうか?

知的生命体とは、おそらく上記の疑問を問い続けながら本能に流されない生き方をする生命体ではないだろうかと思うばかりである。「常の道は道に非ず」とある点からも、素直という生き方の姿勢もおそらく固定できない素直さが必要なのだろう。

 

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