自己啓発

老子を読んでみよう(5章目)

更新日:

第5章:天地は仁ならず{理想の政治2}

老子
天地はじんならず、
万物を以て芻狗すうくと為す。

聖人は仁ならず、
百姓ひゃくせいを以て芻狗と為す。

天と地とのあいだは、
槖籥たくやくのごときか。

むなしくしてきず、
動きて愈々いよいよ出ず。

多言たげん数々しばしばきゅうす、
ちゅうを守るにかず。

『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第5章

KY
天地の造化のはたらきには、仁愛いつくしみの徳があるわけではない、わらで作った犬ころのように万物をとりあつかって、それを生み出してはてている。

聖人の政治のやりかたにも、仁愛いつくしみの徳があるわけではない、藁で作った犬ころのように万民をあつかって、用がすめば知らぬ顔でそれを放任している。

天と大地とのあいだのこの世界は、いわば風を送り出す吹子ふいごのようなものであろうか。からっぽでありながら、そこから万物が生まれ出て尽きはてることがなく、動けば動くほどますます多く出てくる。それが、天地自然の無心のはたらきだ。

口かずが多いと、しばしばゆきづまる。黙ってからっぽの心を守っていくにこしたことはない。それが聖人のおのずからなやり方だ。

この章も老子が理想の政治を説いたといわれている。

わらで作った犬ころのように万物をとりあつかって、それを生み出してはてている」この点を我々日本人は文化として知らないので、一見して何を伝えたいのか解らない。しかしこれは古代の中国にあった神事というか呪術的な習慣に起因し、藁で犬を模して人形を作り、一定期間祭るのに利用される事に由来した記載だ。

そして祭事が終わると藁の犬は一転して、祭り中と扱いが変わってしまう点を引用しているのである。そうした文化的背景を踏まえて次の「聖人の政治のやりかたにも、仁愛いつくしみの徳があるわけではない、藁で作った犬ころのように万民をあつかって、用がすめば知らぬ顔でそれを放任している。」と続く文を見ると確かに政治の話ともいえるのかもしれないが、前回に続き自分の意見は少し違う意図もある様に思うのだ。

「天地の造化ぞうかのはたらきには、仁愛いつくしみの徳があるわけではない、藁で作った犬ころのように万物をとりあつかって、それを生み出しては棄てている。聖人の政治のやりかたにも、仁愛の徳があるわけではない、藁で作った犬ころのように万民をあつかって、用がすめば知らぬ顔でそれを放任している。」

ここで筆者が注目したいのは犬と万民にたいしてスポットライトのあたっている時と、ライトが過ぎ去る時が来るという点である。

どういう事かというと、老子が理想とする聖人や天地は、スポットライトのあたっている時(祭り中の藁人形や民が活躍している時)は主役として扱われるが、ひとたび状況が変わると扱いが変わって主役扱いされなくなるのはあたり前だといっているのである。

そんな事はあたり前じゃないかと思うだろう。しかし活躍したあの時の功績でいつまでも仁愛を求め続けるのは、違うのではないかと解釈できないだろうか?これは既得権益や血筋による縁故を揶揄やゆしているとも取れるし、または日常にある見返りを期待する心を揶揄しているのかもしれない。

客観的に観ると当たり前に思えた事象も、自分たちの身近なものに置き換えて考えてみるとなかなか怖い事になる。

例えば社会で生活する上で、特にサラリーマンであればなおさらかもしれないが、以前の功績によってそれなりの報いが在ってもいいじゃないかと思わないだろうか?筆者の解釈を当てはめると、功績には褒賞があればよく、後に続く既得権益を得るのは違うのではないだろうかといっているともとれるということだ。

会社と会社員の利益還元をいかに考えるかは、少し話を横に置いておきたい。ただ給料制度的に固定給を既得権益と捉えた時、高い固定給をもらい続ける事はどうなのだと問われているとも解釈できるのである。

今の筆者的解釈で社会的な近似例をあげるならば、老子は出来高制の給料制でもいいのではないかと提案しているととれないだろうか?まあこれはこの章の局所的な部分を抽出して、拡大解釈するとそう解釈できないだろうかという言いがかり的な解釈である。ただ老子は自然はそれぐらいシビアに栄枯盛衰と生存競争活動をしているぞと説いているのではないかと思うのだ。

そして炉に風を送るフイゴのように、中が空っぽで新しい空気を送り続けるから天地の造化は絶えることなく多様性を発揮して栄えるのだと続けられると、利益分配的な事を考えた時に意味深長な解釈をしてしまうのもしかたないのではないかと思うのだ。

ここでフイゴが動き続けるとは、天地の造化にたいして「道」の働きを例えたものだろう。そしてフイゴのように中が空っぽとは、常に囚われるものが存在しないといえるのではないだろうか。囚われがあるとするならば、フイゴという形ぐらいだろうか。

自然界の観測より導き出される非情で冷徹かもしれないが、確かな情をもつ公平性。

仁愛を否定するものではないと思う。しかしいつくしみが当たり前となると、おごりとなり醜悪しゅうあくなものに変わるのは悲しいかな世の常の様に歴史が物語っているではないか。そして歴史とは、古今東西の人社会に有史以来残るすべてにその片鱗は読み取れるだろう。

特権階級の横暴と腐敗または驕り。これについては東西の歴史を観ても、うちの歴史に関してはそんなことはないといえる歴史を紡ぐ文化は無いのではないだろうか。横暴や腐敗は、社会の成熟度合いによって狂化するようにも筆者は感じる。けっして未開や野蛮という概念でもって、横暴や腐敗の狡猾さや狂乱の度合いを階級付出来るものではないと思う。

腐敗や横暴は、法制度や倫理観が整えば整うほどにその狡猾さは増すように思える。そして腐敗を腐敗と感じさせない制度、横暴を横暴と感じさせない制度へと世や人の常識を変質させる狡猾さは、老子が人よ純朴に無垢であれと願いを込めていう無為以外に解決法は無いのではないかとさえ思われる。

法制化によって禁止事項ができても、人は法の網を超えて法の出来た意味を嘲笑あざわらうかのように次なる禁則事項のもとを摸索し実行する。いつわりという漢字は、人偏に為すとはよくできた象形である。「人の為すことが全て偽りとは言わないが、すべての偽りは人の為したもの」なのだから何とも業の深い漢字ではないだろうか。

故に老子は何度も無為自然を説くのだろう。そしてこの章では人の為す仁がもたらす弊害を戒め、仁を悪用しようとする不心得者がつけいる隙を与えないように説くのだろう。それこそ人の為すすべて(仁)が偽りで無いのだから、仁を騙る偽りを排すべく流水が腐ることの無い様に既得権益を容認せずに聖人の治政はおこなわれるのだと説くのだと思う。

仁愛を利用させないように、あえて素直な仁愛以外を取り払おうとする苛烈な思いっきりのよさ。ここにこの章の現実主義者な老子らしさを感じる。

5章を通して日本社会の労働生産性と時間生産性の開きに感じる事

既得権益が好ましく無くなる考察をした時、筆者の困った脳みそは日本の労働生産性と時間生産性の何とも言えない現状を思い出してしまった。

労働生産性とは、ニュースなどでGDP(国内総生産)などと耳にすることがあると思うが、あれの一人辺りの数値を考える概念である。そして時間生産性とは、時間単位で観た生産性である。

この二つの概念で日本を観た時に、労働生産量は世界でもトップクラスとなるが、時間あたりの生産性で考えた時はトップクラス落ちをするといわれている。拙速巧遅という四字熟語が日本と中国で反対の意味の内容だという笑い話があるが、日本は長く働くことで生産力を確保しているという事である。

「速く拙い仕事よりも、遅くても巧みな方が好いではないか」という日本的な意味では、納期や期日さえ守れるならば立派な職人魂であり誇りを勝ち取るための代価とも、競争力をあげる為の工夫とも言えるかもしれない。

しかし実状は全ての現場がそうした誇りや工夫の結果では無い様なのだ。ではどうした異物のような事例があるかというと、どうも怠惰や仕事の段取りが悪い結果という何とも辛い現実が含まれるそうなのだ。

残業代を稼ぐ為に仕事の能率を落していたと悪ぶる話を昔に聴いたことがあるが、業績が右肩上がりならまだ判らんでもないが、経営不振な時期にそんな事をしていたとしたら狂気の沙汰ともいえるだろう。サービス残業が当たり前な悲しさを感じるが。

仕事というのは一年を通して忙しいというのはある意味珍しく、繁忙期や閑散期と云うものが存在するのではないだろうか。職人的な代替できない工程がある場合はその限りではないのかもしれないが、通年を通して手が足りないとしたら経営者の段取り力の問題ではないかと思う。

リストラという経営上の選択肢がある。必要に迫られてなくなく必要な人材をきる場合もあれば、あえて余裕のある時に人員整理をせずに窓際族を囲うような固定費に余裕を持たせておいて必要に応じて切り捨てるといういろいろなリストラがあるようだ。

老子がこの章でいう天地のフイゴの如き在り様とは、無駄な人材を持たないともいえるし、また同時に人材を無駄にしないともいえる。天地は適材適所に配するし、そうでない場合は非常なようだが適者生存であり適応できなければその場で生存できない様になっている。

しかし同時に自然のシステムは適応できない時は諦めよく適応できる環境に追い込まれるともいえるだろう。食物や環境が合わない状況下で駄々をこねるのは、ある意味人ぐらいだろう。他の生き物は、生存するためにより適した環境を求めて移動する。最たる例が鳥の渡りだろうか。

段取りの悪さは現場の時もあれば、経営者のような上の差配の時もあるようだ。炉で例えるならば、湿った薪が現場の段取りの悪さに例えるとするならば、上の差配の悪さは薪の調達から薪のくべ方だろうか。

火を焚くのに薪を用意するならば、乾いた薪を用意しないのは準備が悪いといえる。
また薪が少ないならば薪を足す必要があるし、
薪を無理に詰め込み過ぎても不完全燃焼となり具合が悪い。

火を管理する者は、それらをふまえて塩梅よく火を調整しないといけないだろう。
またなんの為に火を使うかによっては、火力を調整する必要もあるだろう。

高温が必要なのに小さなかまどではまにあわないし、
大きな火を必要としない煮炊きに溶鉱炉はまずいらない。

こうした視点で人材と仕事を考えると、
雇用した人の為に仕事を無理やり何とかしようとしたり、
儲けの為に無理な人員で仕事を運営したりする。

繁忙期や閑散期を考えて生産調整するレベルならばまだ解らんでもないが、
現場を知らないのかといわんばかりの根性論のような差配の職場もある。
そうかと思うと日に半日ほど仕事をしたかと思うと仕事が終わってしまう現場もある。

おそらく社会通念といえるシステムレベルである意味、不調和をていしだしているのだろう。ブラック労働や労働格差が広がれば広がるほど、総合的には人材の質は低下するだろう。低下するのは、確保できる人員数や能力であったり、また何よりもやる気であったりと多岐にわたる総合的な質である。

質を低下させない為にも、フリーランス的な人材の流動的な社会の在り方がいいとある一部の人々は言うが、その為の教育や社会生活が営める最低限の生活保証がザルのような計画では、なかなかうまく社会移行もましてや個人の生活も成り立たないのも道理なわけである。

必要な個所に必要な人材や資源が無ければ、ままならないのは当たり前である。そしてままならない現状を何とかしようと考える代替案すらも、しがらみや既得権などでままならなくしてしまうのは、人類の適者生存能力を著しく下げる行為に他ならないだろう。

この章で感じたこと

今の日本はこの章が言わんとする道理をしっかりととらえて、障りを解決する必要があるのではないだろうか。「多言たげん数々しばしばきゅすす、ちゅうを守るにかず。」とある様に、大局的な観点で獅子身中の虫とならない生き方を考えなければいけないなと感じるばかりだ。

-自己啓発

Copyright© 企画サイト , 2021 All Rights Reserved.