第3章:賢を尚ばざれば{理想の政治1}
得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗をなさざらしむ。
欲する可を見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
是を以って聖人の治は、
其の心を虚しくして、
其の腹を実たし、
其の志を弱くして、
其の骨を強くす。
常に民をして無知無欲ならしめ、
夫の知者をして敢えて為さざらしむ。
無為を為せば、治まらざる無し。
『老子』-無知無欲のすすめ (著)金谷 治 第3章
手にはいり難い珍しい品を貴重だとするような事をやめれば、民が他人のものを盗んだりはしなくなるだろう。
欲望を刺激するようなものが民の目にふれない様にすれば、民の心は乱されなくて平静になるだろう。
それゆえ、「道」と一体になった聖人が行なう政治では、人民の心をつまらない知識でくよくよしない様にからっぽにして、その腹の方を空腹にならない様にいっぱいにし、民の望みを欲にとらわれないように弱く小さくして、その肉体の筋骨の方を強く丈夫にする。
こうして、いつも民を知識ももたず欲も無い状態にならせて、あの知恵者たちが人民をたぶらかそうとしても、どうしようもないようにするのである。
このように、「無為」のことさらなことをしない自然な政治をしておれば、万事うまく治まるのだ。
理想ともいえる政治の心構えを老子が説いたという件!
でも筆者には、為政者にこの様に統治すべきだと説いているようにはあまり思えなかったりする。
どちらかというと成り上がろう、能力のある自分を売り込もう、またはそんな人材を発掘して自分の発言力を増そうとする者達へと諭しているように聞こえてくるのだ。
春秋戦国時代のような群雄割拠していた時代的には、豪族や才覚のある者が成り上がるにはある意味適した時代だったのかもしれない。なにしろある程度の成果を出せば、出自にそこまで煩く足を引っ張られないようになってきた時代でもあったからだ。
そうした背景から、下剋上のように権力を持つ者が統治そっちのけで支配地域を増やそうと陰謀や横暴に走るのもある意味時代の流行病だったのだろう。そうした戦乱の中を、民衆は木の葉のように時代の流れにもてあそばれていく。
弱者にシワ寄せが来るのは、自然も人の世も昔から同じなのかもしれない。故に自分とその周りだけは弱者になりたくないと考えるのは、人の性というものだろうか。老子はその性に対して、この章でもかたちを変えて戒めているように思うのだ。
「人は誰しも自分という世界の中心であり、自身の意思決定をしなければいけない君主である。」
この点を前提として、この章で老子は上記の文言を説いたのではないかと思うのだ。
ゆえに、賢しらに才能を人と競う競争原理に心身を委ねることを好とせず。一見すると為政者の理想像を説きながらも、本来は意思決定する自分自身を為政者とし、世間一般から観た自分自身を民として説く。
そこには世間に翻弄されて、自身の意思決定のままには立ち行かない自分自身を客観視する思惑もあるのだろう。
だから「賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗をなさざらしむ。欲する可を見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。」とは、お上に翻弄される民衆を客観視しながらもそれに共感するならば己の在り方をまず考えるべきなのだよと説いているのだと思う。
ゆえに「是を以って聖人の治は、其の心を虚しくして、其の腹を実たし、其の志を弱くして、其の骨を強くす。」という警句が続くのではないかと思う。また「その心を虚しくして」とあるが、この心を虚しくするというのもはたしてどの様にうけとるかだと思う。
素直に字面を受けとめれば、禁欲的に多くを望まずに夢を見るべきではないと本当に虚しい心の在り方を求めているようにとれる。
しかし老子的には実はその後の「常に民をして無知無欲ならしめ、夫の知者をして敢えて為さざらしむ。無為を為せば、治まらざる無し。」をもって、心が世間の色香に誘惑されない程度の実直さというか無垢であるべきだと説いているだけなのではないかと思うのだ。
他より華やかで好くありたい、他よりも不安無く安逸でありたい。そうした理想ともいえる誘惑に幻惑されて、実直で堅実な生き方を踏み誤らせる人の小賢しさを為政者への非難のような警句に装って戒めているのだと思う。
老子の神髄は、絶対評価ともいえる自分自身の変革ではないだろうか。
この章は一見すると老子が理想とする政治を語っているように読めるのだが、筆者には老子はそうした他への期待を極力しない人だったのではないかと思うのである。
よく「人を変えようとするな、ただ己の在り様が変われば世界が自ずと変わる」的な言葉を耳にするが、老子はその様な人なのだと思う。土地やしがらみに縛られる事も無く、己の価値観も生きる場所も必要に即して変化していくような風や流水を目標にしたような人ではなかったのだろうか。
ゆえに基本には自分が常にあり、自分中心といいながらも自分を中心とした世界があるので自分自身だけという孤立した状態にはならない。自分と世界は不二のものであり、世界も自分の延長というよりも自分自身といった感じだったのではないだろうか。
だから絶対の自分であるにも関わらず、自分だけに囚われて「世界と自分」という対の関係にはならない事を説くのだと思う。
老子は徹底した現実主義者であると同時に、今の先に理想を描ける人だったのではないかとおもう。だからこそ世界や人を変えようとするよりも、自分自身を深く掘り下げて根底から自分を見直す事で世界との調和を図る道を説くのではないだろうか。
3章で感じること
「人のふり見て我がふり直せ」と「自分の主は自分である」の二つだ。
例えばいやいやながらにやらざるおえないとしても、結局実行する決断をして動くのは自分自身である。本当に自分自身が心底嫌と感じるのならば、全力でその状況を改善すべく変化を試みるべきなのだろう。
その変化とは、自分自身の価値観や現状の生活をも含んだものをいうのだと思う。
現代日本で生きる我々には、憧れてもなかなか実践できない理想かもしれない。ただ老子が言うから無茶でも実行するのでなく、自分自身でできると判断した範囲で生き方に自分の人生を主体的に生きる姿勢を反映したいと思う。
哭いても笑っても、自分の人生の主人公は自分自身なのだから。